親父に別れる【6】働くことは、自由になること
中学のとき、ギャンブラーだった父と決定的に関係が悪くなった。高校からはアルバイトに明け暮れ、学校にも行かなくなる。それでも大学へ進み、会社に潜り込めたのは、運としか思えない力が働いたからだ。働くことは、自由になること。親父から逃げるためだった。

公開日:2026/04/17 02:00
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親父に別れる年の近い3兄弟が中学を卒業するまでは、ギャンブラーの父も少しは自重していたように、いまとなっては思える。子供に義務教育は受けさせた、親としてのつとめは果たしたとでもいう気持ちがあったのだろう。その、たがが外れた。わたしが高校に入るくらいから、父の賭け事に歯止めがきかなくなっていたようだった。
わたしは都立高校に通うようになっていた。公立高校にいくよりほかに、選択肢はなかった。サッカー部に入っていたのだが、1年生の夏合宿で、父親が費用を出してくれなかった。ばくちですって、カネがなかったのだろう。わたしも、もはや部活に出て、ふつうの高校生活を送る意欲をなくしていた。サッカー部は1年で辞めた。学校ではなく、アルバイトが〝主戦場〟になった。ビル掃除、会社寮の庭仕事、ホテルの清掃とベッドメイク、八百屋の配達、スーパーのレジ係、居酒屋の皿洗い、土方など、なんでもやった。
大銀行のオフィスで、床磨きの仕事もした。床をクリーニングし、ワックスをかけ、扇風機で乾燥させるアルバイトの高校生を、銀行で働く正社員らは仕事の邪魔をされたのが不愉快なのか、顔をしかめ、ゴミ箱をからにしても「ありがとう」のひとこともなく、目の前を虫けらがちらつくように無視した。
大きな料理屋でも働いた。3人いた板前の頭、板長さんに目をかけてもらった。板長には小学4、5年生だった子供がいて、その算数の宿題の解法を教えてやっていた。ほんとうは鍋を洗ったりする雑用仕事だったのだが、ぶりと大根の煮物や季節魚の塩焼き、その盛り付けなど、調理見習いもさせてもらった。いまでも簡単な家事なら手早く片付けられるのは、高校のときにかけもちした、雑多な仕事のおかげではある。
最初の給料で靴下を買った
初めてもらった給料を、よく覚えている。2万かそこらのカネだったが、高校生のわたしには手にしたことのない大金だった。すぐ、3足セットで千円の靴下を買いにいった。わたしは、いつでも穴のあいた靴下をはいていた。小学、中学校では、靴を脱ぐ場面が、いちばんの苦痛だった。
男のガキとはじつにくだらない生きもので、クラスメートの弱点を発見し、おおげさに騒ぎ、執拗に突いてくる。からかう。女の子というものはじつに冷酷な生きもので、それを遠巻きに見て鼻で笑っている。他者への想像力や、やさしさというのは、人間に生得的に備わっている性質ではない。むしろ才能に近い。
穴があいているのをばれないよう、穴をふさぐように足指の先を動かし、靴を脱ぐ工夫をしていた。かかとの穴を見せないよう、後ろに人がいない場所を選んで脱いだ。最初に手にしたバイトの給料で真新しい白い靴下を手にしたときの気持ちを、わたしはいまも忘れない。家には風呂がなかったので、毎日、台所にたらいを置いて、自分で大事に手洗いした。お年玉と違い、自分で働いて得たこのカネは、もう親父に取り上げられない。なにを買うのも、自分の自由だ。
働くとは、自由になること。そう知った。いまでも、引きこもりなど仕事に就けない、就かない人たちの気持ちを、ほんとうのところでは理解できない「強者の論理」に自分が傾きがちなのも、親父と、貧困から、必死に逃げようとしていた当時の記憶がありありと残っているからだろう。
高校は、3分の2は休んでいた。出席日数が足りず、危うく中退になりかけた。そのころわたしの担任だったのは、著名な数学教師の武藤徹さんだった。高校3年の秋、出席日数が足りず、自動的に留年することが決まった。武藤さんはわたしに「このままでは留年ですが、どうするつもりですか?」と聞いた。どうするもこうするも、ただでさえ貧窮生活なのに、高校で留年するなどあり得ない。中退すると答えた。
「短慮はよくない」。武藤さんはそう言うと、各教科の教師にかけあって、音楽や体育を含めすべての教科で作文を書くことで落第を免れるよう、とりはからってくれた。著名な数学思想家でもあった武藤さんは、同僚教師にも深く尊敬されていて、そんなことが可能になったようだった。
親父の顔を見ないで済む
大学は、東京の私立に進んだ。一般的には裕福な家の子弟が通うイメージがある。だが、よく調べるとその大学には、当時、日本でも破格に学費の安い学部が、ひとつあった。ジャーナリストの青木理氏も同じ学部の後輩にあたる。後年、ある雑誌で彼がインタビュアーとしてわたしを取材してくれたとき、地方出身の彼もやはり同じ経済的な理由から、その大学に進んだと話していた。
卒業後、運よく新聞社に潜り込むことができた。初任地は川崎市であった。全市の警察を担当し、朝から深夜まで、それこそ馬車馬のように働いた。学費はバイトで払えたので、だれにも借りていなかった。奨学金も受け取っていない。ただ、母親には仕送りをする必要があった。賭け事で家に満足にカネを入れない父は、相変わらずだった。母も働いていたが、非正規の、中卒女の給料だけでは、生活できなかった。
会社員1年目でこうした仕送り生活は、容易なことではなかった。そのころの川崎はいまと違い、川崎駅から海側は工場地帯で、労働者の街だった。安アパートはたくさんあった。古い木造アパートの6畳間に住んだ。部屋に飲みに来た先輩が「なんでこんなところに住んでるんだ?」と驚いた。ただ、初めての一人暮らしは、肺臓に多量の空気が入ってくるものでもあった。自由だった。父の顔を見ないで済む。親父に別れる。カネで自由を買った。カネには、それだけの価値はある。カネなんて、それだけの価値しかない。
債務地獄に落ちていく
イギリス人は、だれにもカネを借りず、自分のカネだけで生きることを最大の喜びとするのだと、どこかでチェーホフは書いていた。しかし、父には父で別の生活信条があり、処世の原則があったようだ。
わたしを最後に子供3人が学校を卒業した。兄と弟は高卒であった。それぞれに働き始めてからも、いや、働き始めたがゆえに、父は賭け事にのめり込んでいった。奈落に落ちるスピードに加速度がついた。
賭け金が比較的少なく、また多少は「腕」によって勝ち負けが決まるらしい麻雀はともかくとして、競馬、競輪、花札、丁半博打に手を染めていた。運にしか作用されないこれら賭け事で、勝ち続けることはだれにもできない。漫画本にあるような、ギャンブルに技術、理屈で勝つことはあり得ない。あるとしたらいかさま師だ。胴元が勝つように、それこそ合理的に、ギャンブルのルールはできている。維新の会が、大阪万博開催に狂奔したのも、その裏には開催地でのカジノ建設が本当の目的としてあったのだろう。またその裏には、「ギャンブルは胴元が勝つ」という科学的根拠がある。愚か者から金を巻き上げる。
父のギャンブル依存はますます深まった。借金は武富士やアコムなどの大手サラ金に始まり、その返済に困って、名も聞いたことのないまた別のサラ金に借りて金利だけを払い、その金利払いに困ってまた別の個人のカネ貸しに借り……。典型的な債務地獄に落ちていった。
世界に無関心になれ
しかしわたしは、そんな父親には無関心であった。親父とは別れたつもりだった。親父も、子供のころからわたしに無関心だったはずだ。世界が、わたしたちに無関心であった。いまでも、飢えている子、虐待されている子、戦火の下にいる子はいる。それらはみな、世界が彼らに対して無関心であるしるしだ。
「おまえのことなんか構っていられないよ」
冷ややかにそういい放つ世界に対しては、自分もまた、無関心であれ。穴のあいた靴下も、少年のころ続けた盗みも、父や兄から受けた暴力も、ただ忘れてしまえばいい。家族なんて、いらない。田舎の貧家に生まれて教育もない、哀れなおふくろだけには、仕方ない、カネでも送ってやるさ。
つまりそういう取引なのだ。けっして幸福を与えない世界に対しては、わたしも、世界の外にいるように、無関心に、そっけなく振る舞えばいい。新聞記者になったのだって、社会正義だの、弱者に寄り添うためなんかじゃない。そこそこよかったカネのためだ。いったいだれが、どんな世界が、弱者に寄り添ってなどしてくれたのか。
世界と距離が生じると、にわかに世界が好ましい細部を表してもきた。仕事のため、中古の原付バイクを買った。車は買えなかった。一日中、好きに乗り回して、細長い川崎市中を走り回った。コンビナート地帯の、化学物質が燃えたような嫌な臭いの中で見る大きな夕日も、自由でありさえすれば、悪くなかった。
どうでもいい刑事へのどうでもいい夜回りを終え、そのころはまだ川崎に残っていた、労働者相手の、裏通りの娼家街を通り過ぎ、深夜もやっている小さな提灯料理屋に通った。質素なつまみで冷たいビールを飲み、銀シャリのおまんまに塩を振り、どんぶりめしでたらふく食った。くだらない仕事でも、つかんだら手放すな。働く場所があるだけラッキーだろう。自分のカネで、腹がくちくなる。飢えることがない。これ以上の幸運が、どこにあるというのか。
しかし、そんな利己的な幸福も、長くは続かなかった。親父の影が、長く伸びてきた。
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