親父に別れる【5】そしてわたしはどろぼうになった
ギャンブラーだった父親との仲が、決定的に悪くなる出来事があった。中学生のときだった。そしてわたしは、どろぼうになった。

公開日:2026/03/17 02:00
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親父に別れるわたしが中学生のときだった。父親が明け方、帰宅してきた。タクシー運転手なので、朝帰りじたいは珍しいことではないが、「給料袋を落とした」とわたしに言ったのだった。
かつかつの生活だった。前に述べたように、食べ盛りで体格のいい男3人兄弟で、飯のとりあいになるような浅ましい餓鬼道の生活だった。わたしにとってもひとごとではない。会社から家まで、どの道を通って帰ったのか、給料袋はどこに入れていたのか、父親に問うた。父はなにやらぼそぼそと説明していた。給料袋を落としたというのに、わたしほど大騒ぎもしていない。
わたしは、家からタクシー会社までの道を走った。どこかに落としているに違いない。早朝でもあり、人通りは少ない。拾われていない可能性もある。いや、拾われていても、ここは日本だ、交番に届けてくれる可能性もある。登校時間も忘れ、必死に探し回った。給料袋は、どこにもなかった。
悄然として家に帰り、まだ寝ていなかった父に告げた。父は「そう」と言っただけだった。母親も、とくに大騒ぎしていなかった。
あたりまえである。給料袋など、最初からなかったのだ。給料全額を、どこやらのカネ貸しに、利子分だけでも払わなければならない。悪い借金があったのだろう。そうとは告げることができず、「落とした」などと子供にも分かるうそをつき、母も、もはやなにか言う気力もなかったということだろう。「子供にも分かるうそ」を、中学生にもなって、わたしが分からなかったというだけだ。
父はそれまで、わたしに積極的につらく当たることはなかった。ただ、常に冷淡であった。そのことに、わたしはあまりに慣らされていた。それがわたしにとって、父子関係の経験としての全体だった。
しかし、中学時代からは、極端に父との仲は悪化した。
中学を出たら自衛隊へ入る
母親がいないすきに賭場へ向かう父親を、つけていったことがある。「なんでついてくる?」という父の低い言葉を、睨み返して無視した。再び歩き始めた。わたしもついていく。父は、人目もあって大声は出せなかったのだろう。「もういい」と、家に帰った。帰宅した家には、母が戻っていた。まだ夕刻だったが、父は自分で床を敷き、布団をかぶりながら、そういうことをするなら、おまえなど出て行けと、こんどは心おきなく大声でどなった。
出て行ってやるよ、中学を出たら自衛隊へ入る! わたしも、大声で怒鳴り返した。なにがあったのか知らない母親だけが、うろたえるばかりだった。父とわたしは、その日以来、口をきかなくなった。
そんなことだから、小学校、中学校で、親から小遣いを定期的にもらっていた記憶など、ない。どうやってやりくりしていたのか、いまとなれば不思議である。兄と弟は、かなりな不良であったようだ。詳しくは知らない。「その道」で、なにがしかのカネを得ていたのかもしれない。
わたしはといえば、そのころ、けちなこそ泥になりかけていた。ご多分に漏れず、最初は万引きで味をしめた。小学生のころだった。いちど、見つかってこっぴどく叱られたが、警察に突き出されるまではいかなかった。その後は万引きをやめ、「本格的」な泥棒になった。目星をつけた飲食店に、裏口がないかどうか観察する。裏口に忍び込めるような隘路があるか、調べる。子供なので、隘路でかくれんぼうをしていると、思わせることはできた。飲食店は、裏口に飲み物のケースを置きっ放しにすることが、よくあるものだ。
日も暮れ、店の明かりが消える真夜中を待つ。人通りがないことを確かめ、あらかじめ調べておいた壁と壁のすき間、隘路を通って店の裏口にたどりつく。そこで、ジュースや、酒を、1本か2本、分からない程度にくすねてくる。「次」につなげるためだ。酒は、小学4、5年のころから飲んでいた。
食料品店の倉庫に抜け穴を見つけ、たびたび忍び込んでいたこともある。日々の食品を、少しずつ盗んできた。恐怖心は、なかった。父も母もいない、子供だけの餓鬼道の毎日のほうが、よほど恐怖であった。
だんだんエスカレートし、路上駐車しているバイクからガソリンを盗むこともし始めた。5円玉などの安い硬貨に、ここでは書けないような「細工」をし、100円玉に偽装して自動販売機で使っていたこともある。立派な贋金使いである。ある日、贋金を使った販売機に行くと、背の低い金髪の男と、人相の悪い大きな男とが、わたしを睨みつけた。
その後、中学3年で隠れバイトを始め、高校に入ってからは堂々とビル掃除をするようになった。少ないとはいえ定期的に数万円の給料をもらうようになるまで、盗みは続けていた。あのまま〝成功体験〟を続けていたら、どんな人生になったことだろう。いまでも夜中、考えることがある。恐怖はない。恥があるだけだ。
正月に顔を蹴られた
親父と口をきかなくなった年の、正月のことだった。親戚の家で10数人が集まり、年賀のあいさつをかわし、大人たちは酒を飲んでいた。わたしたち兄弟3人も、お年玉ほしさのためだけに、その場にいた。もらうものをもらうと、思春期の子供らしく、なにもしゃべらず、兄と弟はテレビを見、わたしは本を読んでいた。
そこに、遅れて父と母がやってきた。こたつに座って本を持っていたわたしの頭が、大きく揺れた。居間に入って来るなり、父親が、いきなりわたしの顔を足蹴にしたのだった。まともにヒットした。
わたしはなにが起きたのかも分からない。むしろ周りがびっくりして、父を羽交い締めにしていた。父は、すでに酔っていた。なにか連絡の行き違いでもあって、わたしが父親の言いつけを守らなかったとかなんとか、勘違いをしたらしい。あとで、周りの大人たちに聞いた。
馬鹿馬鹿しい。どうせ年末、賭け事に負けてもいたのだろう。もはや、怒るでもない。前から積み上がった憎しみと、新しく火勢を強めて燃え広がる軽蔑と、とはいえいますぐには家を出てもいけない中学生の自分の弱さとを、自分でも驚くほど冷静に勘案し、見比べていた。ただ、身のうちに、震えるような屈辱だけが残った。一生忘れない。いまも、忘れていない。
自分の足で、ひとりで生きろ
強くあらねばならない。独立しなければならない。だれにも――父にも、教師にも、警察にも、自衛隊であれば上官にも。世間であれ、会社であれ、国でさえ――それがだれであっても、二度と自分の頭に、手も足も触れさせない。決して泣いてはいけない。だれとも、口をきかなくていい。だれにも、分かってもらえないでいい。
タフであれ。自分の足で立て。ひとりで生きろ。
いまになって思い返せばだが、そんなように身構えたのは、あの瞬間だったろう。ガードを固くし、自分の殻に閉じこもり、極端に無口になり、なにも説明しない。世界への不信に固まり、自分以外、なにも信じない。
もはや還暦を過ぎたいまに至るまで、わたしの世界観は、大筋ではこのころと変わっていない。衆人の前で、顔を足蹴にされた人生観だ。
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親父に別れる
コメント
向かいに近藤さんが座って、自分ひとりが聞いているような感じがします。
わたしも盗みをしたことがあります。
汚いことをたくさんしました。
でも、近藤さんが自衛官でなく、
文章を書く人になってくださってよかった。
自衛官になられてたら、たぶんあなたの文を読めませんでした。
その分、わたしの今の生き方も変化していませんでした。
誰にも分かってもらえなくていい。という言葉がこんなに辛いと感じたことはないです。
自分の息子が依存症になり、なんとか気持ちを分かりたいと思いますが、やはり分かってあげられないもどかしさを感じます。私に話せなくても、分かり合える仲間が息子の周りに居てくれたらいいなと思います。
悲しい…。
