Addiction Report (アディクションレポート)

「正しさ」と「美しさ」は違うと思う。 どうせなら、正しく生きるより美しく生きたい。「失われた私」を探して(51)

「正しい母親」になれずに、子供を傷つける母親のことを私たちは断罪してしまう。それでも「良い母親」になれず、「悪い母親」にしかなれない人はどうしたらいいのだろう? どちらにしても「孤独」が付きまとうなら、「孤独」を「孤高」に変えてしまおう。

「正しさ」と「美しさ」は違うと思う。  どうせなら、正しく生きるより美しく生きたい。「失われた私」を探して(51)
撮影・黒羽政士

公開日:2026/06/06 03:45

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「失われた私」を探して

「正しい母親」になれない人もいる。

そういう人たちを断罪するのは、はたして「正しい」のだろうか?

前回、私は相談者の「まんまる」さんに、「正しくない生き方をしなさい」と勧めました。

それが自分を救うのならば、正しさなんて関係ない。

自分のために生きていいんだ、と。

今でも、その考えは変わりません。

ただ、あの原稿を書いた後で、ふと、以前このコラムでインタビューした後藤さんのお母さんのことを思い出しました(←「失われた「私」を探して 第43回第44回をご参照ください)。

アルコール依存症に苦しんだ後藤さんの背後には、彼女のお母さんの存在がありました。

お母さんは、後藤さんがまだ少女の頃に男の人と駆け落ちして、家族を捨てた。

そして何年も経ってから、ふらりと帰って来たものの、パチンコとアルコールの依存症になっていました。

後藤さんはお母さんが大好きで、帰って来たお母さんの面倒を見続け、自らもアルコールに溺れてしまいました。

お母さんがそういう人じゃなかったら、後藤さんの人生はまったく別のものになっていただろうに。

インタビューをしながら、そう感じたのを覚えています。

そう、私は後藤さんに同情するあまり、彼女のお母さんのことを「酷い母親だな」と心の底で思ってしまったのです。

でも、考えてみたら、後藤さんのお母さんも、「正しく生きられなかった人」だったのかもしれない。

相談者の「まんまる」さんのように、夫や子供に縛られて自分らしく生きることができず、苦しい想いを溜め込んでいたのかもしれない。

そして、ある日ついに、自分を救うために家族を捨てて出奔した。

だとしたら、一方的に彼女を「酷い母親」と断罪したのは申し訳なかった、と反省したのです。

「正しく生きられない人」の味方でいるつもりだったのに、いつの間にか「正しさ」で人を裁いていた。

まったく、私ときたら、どうしようもない未熟者だ。

後藤さんのお母さんは、確かに「正しくない」です。

不倫して夫や子供を捨てるなんて、「正しい母親」ではありません。

でも、この世には、「正しい母親」になれない人もいるのです。

そんなら子供なんか産むな、と言う人もいるでしょうが、捨てようと思って子を産む人はいません。

産んだ後に初めて、自分が「正しい母親」になれないことを知るのです。

それに気づいた時の彼女たちの苦しみは、いかばかりでしょうか。

子供を愛してはいるけど、このままでは自分が自分でなくなってしまう。

だからといって、自分を優先したら、子供がかわいそうだ。

決して子供を不幸にしたいわけではないのに!

子供のために自分を殺すのが「良い母親」だと知っているのに!

それでも、私は私を救いたい!

どうすればいいの?

後藤さんのお母さんは、自分を殺して、子供のために正しく生きるべきだったのでしょうか?

母親としての責任と、ひとりの人間としての幸福追求権……それが対立してしまった母親たちは、どん詰まりの絶望に放り込まれる。

子供のために自分のすべてを捧げることを、むしろ喜びと感じられる母親は、とても幸福な人々ですよね。

世間の求める「母親像」と自分の欲望が一致しているのだから、誰からも非難を浴びないし、堂々と胸を張って母親業を全うできる。

そう、世間は「母性」に「自己犠牲」を求めます。

でも、それはあくまで世間の「正しさ」であり、ひとりひとりの母親にとっての「正しさ」ではありません。

その「正しさ」に窒息してしまう人もいるのです。

後藤さんのお母さんも、前回の相談者さんも、「正しく生きられない」人たちでした。

もし彼女たちが自分を殺して、子供のために「正しい母親」として生き続けたら、もしかすると「自死」を選んでしまうかもしれません。

それくらい、彼女たちにとっては深刻な問題なのです。

そんな人たちを、私は裁けない。

裁く権利も資格もありません。

どんな生き方を選んでも「孤独」はつきまとう。

ならば、「孤独」を「孤高」に変えてしまおう。

では、正しい母親になれない人たちは、どうすればいいのでしょうか?

自分を救うために「悪い母親」になるか?

子供の幸せのために「良い母親」となるか?

どちらを選んでもいい。

ただ、どちらも大きな代償が伴います。

「悪い母親」になったら、あなたは子供から恨まれ、世間から糾弾されるでしょう。

「良い母親」になったら、あなたは一生、自分を殺し続けて苦しむことになるでしょう。

どちらが正解かと問われれば、「正解なんてない」と答えるしかありません。

そう、人生には「正解」なんて、ないんです。

あなたが自分で答を出して、それが正解になるよう努力するしかないんです。

あなたには、選択の自由がある。

ただ、何を「選択」するにせよ、そこには「覚悟」が必要です。

子供から恨まれ憎まれ、世間から白眼視される覚悟はあるか?

帰る場所をなくし、味方も失い、それでも「これが私の選んだ道だから」と毅然と生きていく覚悟はあるか?

「正しくない生き方」を選ぶのならば、腹を括らなければなりません。

世間はあなたを赦してくれない。

でも、それなら、あなたが自分を赦せばいい。

だって、あなたを裁く世間は、あなたを救ってくれないもの。

あなたを救えるのは、あなただけなのよ。

世間から非難されながら生きるのは、きっと孤独でしょうね。

けれども、自分を殺して生きるのも、これまた壮絶な孤独です。

どちらを選んでも、別の孤独が待ってるんだ。

子供や孫に囲まれて幸福そうに暮らしている人だって、その心の底には凍えるような孤独が吹き荒れていたりする。

生きている限り、人間は孤独から逃れられません。

ならば、「孤独」を「孤高」に変えてしまおう。

「孤独」と「孤高」の違いは、自らの意志でそれを選んだかどうか、です。

自分で選んだという自負と覚悟があればこそ、「孤独」は「孤高」になるのです。

誰にも理解されなくても、凜として孤高に生きている人たちを、私は知っています。

そういう人たちを、美しいと思う。

泥まみれでも、美しいんです。

褒められるような生き方なんかしてなくても、自分の生き方を自分で決めているという、まっすぐな意志がそこにあるから。

「美しさ」は「正しさ」とは別物です。

「正しさ」は世間の尺度ですが、「美しさ」は自分の尺度です。

自分の物差しを持っているからこそ、自分の生き方に腹を括れる。

どうせなら、正しくなくていいから、美しく生きたい。

私は、そんなふうに思っています。

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