「なんで私が依存症者を“理解してあげないと”いけないの」? 神経科学から迫る多様性の受容という「誤解」
「なんで私ばっかりが」——「叱る」ことをやめようとすると、時にそんなフラストレーションが押し寄せる。しかしその苛立ちの正体を知ることが、案外、相手を理解する近道なのかもしれない。

公開日:2026/09/04 02:00
『普通ではない人を“理解してあげる”という発想に陥っている人が多い』と話す、村中直人さん。
前・中編に引き続き、後編では、"理解してあげる"支援から脱却し、"わかりあう"関係に向かうヒントを一緒に見ていく。
(取材・文:遠山怜)
「叱る対象」は自分と似て非なる者
ーー「叱るのをやめよう」と思っても、何か言いたくなる時があります。この“相手を正したい”気持ちはどこから来るのでしょう。
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村中さん:人が他人を非難したくなるのは、相手の行動が自分の思う規範から外れた時です。「私ならこうする」や「人としてこうあるべきだ」が中心にあって、相手がそれにそぐわない行動を取ると、「怠けている」とか、「私を軽く見ている」と思ってしまう。
自分を基準に考えれば、相手は間違っているように見えるし、許せなくなってくる。
ーー確かに、『非常識』『信じられない』みたいな言葉で非難しがちです。
村中さん:この現象は、依存症者と健常者、あるいは発達障害者と定型発達者の間で特に起こりやすい傾向があると思います。もっと言えば、世の中のあらゆる多数派と少数派の間で、必ずこうした「異文化間の摩擦」が起きている。
しかし、多数派が正しくて正常で、少数派が間違っていて異常だというわけではありません。多数派は数が多い分、そちらの考え方や行動が常識とされやすいだけです。実際は、違う行動様式と価値観を持つ人の間で、摩擦が起きているのです。
ーー確かに、依存症の問題も、自分と近しい事例は「そういうこともあるかも」と思えても、共通点が少ないと「そんなのおかしい」と思いがちかもしれません。
村中さん:私が専門とするニューロダイバーシティの観点からすると、人がこの世界をどう捉えているかは、一般的に想像されるより遥かにバラバラです。
「依存症者は」「発達障害者は」特殊なんだというより、すべての人がそれぞれ別個の存在です。私たちが生きている世界は一つですが、それをどう捉え、認識し、考えているかは一人一人全く異なるのです。ただ、その違いの程度において、依存症者や発達障害者が目立ちやすいというだけです。
ーー際立つ存在がいるおかげで、小さな違いに気づかずに済んでいるのかも。
村中さん:例えば、一般的に、依存症になる人は他の人とは違うと思われています。しかし、何らかの報酬を求めて行動すること自体は、誰しもしているはずです。人に認めてほしいから勉強を頑張ったり、欲しい物を手に入れるために仕事したりといった経験は、誰にでもあるでしょう。
何かを報酬として学習し、それを求めるという機能があるからこそ、私たちは社会生活を営んでいる。しかし、その状態が行きすぎて日常生活が立ち行かなくなれば、いわゆる依存症ということになります。
便宜上、「これを満たしたら病気」という基準は定義されていますが、誰しもが何らかの依存的な面を持ち合わせています。病的とされるラインが100点だとして、多くの人は30点とか60点をうろうろしているというだけです。生涯通じて0点という人はほとんどいないのではないでしょうか。
「依存症は誰でもなりうる」というのは、そういうことです。依存症は程度の問題であり、誰しもが予備軍でもあるのです。
「怒り」は、自分と他人の距離感から生じる
ーー普段の自分を振り返れば、依存症を理解するのもそこまで難しくないかもしれませんね。ただ、「私はこうなのに」が前面に出てくると、相手が許せなくなってくる。
村中さん:常識や正解が一つだとすれば、その基準から外れた人は非常識に見える。でも、いろんな常識や正解があるという前提に立てば、相手の行動も違った見方ができる。相手は非常識なのではなく、別の常識を生きているのかもしれない。
「違っていることが当然だと思うこと」は、お互いが楽になる近道なんだと思います。
親子であっても一緒に暮らす家族でも、持っている価値観は違うし、別の人生を生きている。それは性格が悪いとか怠惰だとか、能力が劣っているわけではない。出発点が違えば、辿り着く選択肢も異なりうる、ということです。
ーーただ、一方が一方に「受け止めてあげましょう」というだけでは、理解が進まない気がします。『なんで私が?』と、反発されてしまうような。
村中さん:私はその意味で、二つのアプローチが必要だと思っています。一つ目は、少数派とされる人たちを支援する方法。依存症者にしろ、発達障害者にしろ、何かと誤解されて生きづらい思いをしている。
だから、彼らに「異常」「劣っている」という枠組みから外れて自分を理解し、自身を否定することなくやっていく方法を模索する支援が必要です。いわゆる、当事者支援です。
しかし、そこで障壁になるのが、「当事者ではない」と自認している人たちです。彼らは、自身をスタンダードで普遍的な存在として位置付けていて、「特別な人」を“受け入れてあげている”側だと思っている。
ーー当事者に対して、なぜか“ご意見番”みたくコメントしてしまったり。
村中さん:この“受け入れてあげる”という発想は、しばしば、『普通じゃない人にそんな労力はかけられない』とか、『〇〇ができないなら、受け入れるに値しない』という考えに発展しやすい。
「当事者ではない」と思っている人にもアプローチしない限り、双方の対立は解消されないと思います。
「わかってあげる」を越えて
ーーそもそも、世の中は多数派に合わせて設計されている。その前提すら忘れて、「なんでわざわざ私が?」と思ってしまうのかも。
村中さん:画一化された“普通”の中に特殊なものがあると考えるから、「特別に受け入れてあげる」という発想になってしまう。
でも、先ほどお話した通り、人はみんな違う存在です。「依存症者」「発達障害者」みたく、目立つ存在がいるから気づかないだけで、「健常者」「定型発達者」も本当は一枚岩ではありません。
誰しも依存的な面を持っているし、他の人とは違う個性を持っている。でも、社会で生きていくには、“普通”でないといけないから、違いを押し殺して“普通”を装っている。
ーー「私も我慢している」が、「だからあなたも同じように我慢してよ」につながると。
村中さん:そこで私は、二つ目のアプローチとして「多数派の解体」が必要だと考えています。一見、コンクリートで真っ平らに固められた地面も、掘ってみればいろんな物が出てくる。土の質も違えば、入っている石ころも、そこで暮らす微生物も違う。蓋を開けて見れば、「普通の私たち」なんてどこにもいない。
「みんな違う」からこそ、互いが互いを理解し合っていると考えれば、その延長線上に「少数派」とされる人を位置付けることは難しくないのではないでしょうか。みんなが互いに受け入れ合っているという前提に立てば、「特別に受け入れてあげる」という発想にはならない。
遠回しに見えても、こうした考え方が、社会全体の認識を変えるために必要不可欠だと思います。
ーー「多様性社会」と聞くと、つい自分は受け入れる側だと思ってしまいます。でも、何かしらの面で、自分もまた受容されている側だったりするのかもしれません。最後に、読者の皆さんにメッセージをお願いします。
村中さん:今の世の中、「叱ること」が広く許容されていると思います。「厳しくしないと学ばない」「甘やかすと人は育たない」ーーそうした「叱ること」を正当化する考えは、ほとんどの場合、誤解の下に成り立っています。
本当は人は苦しまなくても学べるし、変わっていけるはずです。私はその「こうじゃなきゃ」という誤解を解いて、人のメカニズムをお伝えする存在でありたいと思っています。その上で、どう生きるか皆さんが好きに選べる社会になってほしい。
