誰も薬物事犯の“更生”は考えていなかった――覚醒剤取締法は何のために作られたのか
1951年に成立した覚醒剤取締法。「青少年犯罪を防ぐ」という名目の下、流通拡大を止めるために「使用・所持」含め包括的な禁止に踏み切った。製造業者のみならず、「使った個人」も一律で処罰する処遇は、なぜ「当たり前」になったのか。

公開日:2026/05/12 02:00
中編では、明治大学 政治経済学部 政治学科教授の西川伸一さんに話を聞き、日本において、なぜ「薬物=犯罪」のロジックが強化されたのかを見ていく。
(取材・文:遠山怜)
厳しく罰しても、乱用は止まらなかった
ーー現在でも、薬物事件が起きるたびに「もっと厳しく罰するべきだ」という声が上がります。では、覚醒剤取締法の成立後、実際に「厳しく罰すること」で乱用は抑えられたのでしょうか。
西川:残念なことに、法規制後も問題は収束しませんでした。

覚醒剤取締法の制定により、検挙者数は急増しますが、まだ乱用者数は衰えを見せません。1954年には、5万5664人が覚醒剤取締法違反で検挙され、戦後最大に達しました。病院の推計では、100万人の中毒者がいるとも言われていました。

それというのも、当初は、犯罪として取締り対象になったとはいえ、罰則は非常に軽いものでした。実際、覚醒剤取締法違反で検挙されても、裁判では執行猶予付きの判決が出ることがほとんどでした。逮捕、起訴したところで、またすぐに再犯を繰り返す。

ふたたび、世論の突き上げに合わせるように、1954・55年と短期間で法改正を重ね、罰則が強化されていきます。
取り締まり強化を後押しした「脅威論」
ーー罰則がさらに強化されたとのことですが、これはなぜでしょう?逮捕者の使用動機や乱用傾向をもとに、「処罰を重くすれば乱用は止まる」と判断したのでしょうか。
西川:いいえ。厳罰化の背景を見るに、ここでは政治的文脈が大きく関与していたものと思われます。
ヒロポンの乱用拡大に関して、当時の治安当局は、覚醒剤の密造・売買に在日コリアンが関与していると見ていました。国会答弁や当時の資料では、「在日朝鮮人」という表現が用いられ、覚醒剤は彼らのしのぎであるとされていました。
当時の新聞報道も、北朝鮮が覚醒剤の密造先となっていると報じています。他にも、覚醒剤密造に当時、勢力を拡大しつつあった共産党が関わっており、活動の資金源になっているのではという見方もされていたようです。
ーー単に覚醒剤の乱用を止めるという話から、だんだん「社会を脅かす存在を排除する」という話に主軸が移ったように思います。覚醒剤がそれらの“国家的脅威“の資金源になっている、というのはどこまで事実なのでしょう。
西川:これはあくまで、法改正時の当時の治安当局による認識であり、組織的関与が実証されていたわけではありません。
ですから、あくまで疑惑の範疇を出ないのですが、いつしか覚醒剤の取締は「日本を脅威から守る」という国防的な意味合いを持って、行われるようになりました。
1954年の法改正では、さらに常習犯や営利犯を厳罰に処すことになりましたが、それはこうした在日コリアンや共産主義者の処罰を狙ったものでした。長期収監ができれば、国外退去を命じられるほか、共産党勢力の弱体化を狙えると考えたようです。
「乱用対策」から「排除」へ
ーー治安当局や国の捉え方とは別に、世間一般はどう見ていたのでしょう?
西川:ちょうど、1953〜54年には警察の取り締まりが強化されました。また、この頃、厚生省は巨額の宣伝費をかけて、「ヒロポン撲滅」に向けて絶滅運動に乗り出します。覚醒剤の脅威をテーマにした映画がいくつか制作され、都内各所で上映されていたようです。
こうした一般向けの広報政策も相まってか、世の中の認識も厳しく取り締まって当然だと、変わってきたのかもしれません。
ーーただ、前回のお話では、当時は覚醒剤を使ったことがある人も少なくなかったんですよね。そうだとすると、世間は何を持って、「危険な使用者」と見なしたのでしょうか。
西川:確かに、当時のほとんどの成人が一度や二度は使ったとしてもおかしくない時代だったと思います。ですが、使用経験者を全員取り締まるわけにはいきませんから、暗黙のうちに線引きをする必要があった。そう考えると、彼らの中で「少し試したがやめた人」と「常習化した人」は違う、という線引きがなされたのかもしれません。
特に、覚醒剤使用者の扱いを決定づけたのは、1954年に起きた「鏡子ちゃん事件」です。乱用者が子供を暴行・殺傷するという凶行に及ぶと、世論は一気に「こんな危険な奴は取り締まれ」という風潮に向かいました。
処罰は「更生」ではなく「抑え込み」だった
ーー「自分は使っても依存しなかった。だから、繰り返し使ってしまう人は、何か問題があるに違いない」という、生存バイアスが働いたのかもしれません。覚醒剤使用者が「社会悪」と見なされる一方で、更生や治療の議論はどこまで行われていたのでしょうか。
西川:実は、この厳罰化は政治的意図によるものが大きい。高野一夫議員は、1954年に量刑引き上げを行った改正時の中心的人物です。翌1955年の改正審議の場で、1954年改正の意図について問われたとき、高野は「裁判所で判事にこの覚せい剤違反行為がいかに重大なる問題であるかということをよく反省してもらう」ためだった、と発言しています。
また、法務省刑事局参事官の勝尾鎌三も、「覚せい剤の事犯の一般的な悪質というものを裁判官によく認識してもらうという面について、非常な苦労を重ねて」いる、と述べています。
要は、「罰則を上げることで裁判官の量刑判断を誘導しよう」という意図があったのだと思います。これらの言動は司法権の独立への干渉と受け取られかねない発言ですが、少なくとも、当時はこうした倫理観の下に政治が行われていました。
ーーここにおいて、処罰は更生のためというより、社会不安を鎮めるための手段のように見えるのですが。
西川:当時の議論を見る限り、とにかく、世論の「覚醒剤乱用者は怖いから取り締まれ」という声に応えたという面が大きいように思います。当時の新聞の見出しも、今ではとても許されないような扇情的な言葉で使用者を非難しており、「厳しく罰せられて当然」というムードだった。この危機感を沈静化させるには、厳罰化一択だったものと思います。
特に、二度の改正は、最初の立法がうまく機能しなかったため慌てて追加措置を課した、という性格が強かったと思います。1955年には、さらに常習違反の最高刑が10年に引き上げられ、覚醒剤の原料も規制対象に含まれるようになりました。
ーー覚醒剤は「社会悪」と結びつき、「厳しく取り締まること」そのものが正義のように語られていった。一方で、処罰された人がその後どう回復するのかは、置き去りにされたままだった、ということですね。
当時、使用者の権利や回復を制度に組み込む余地はあったのでしょうか。
西川:正直なところ、現在の人権意識を持って、当時の国会と世論を説得するのは、かなり難しかったと思います。強いて言えば、覚醒剤中毒者の更生に向け、治療する病院に予算をつける、ぐらいでしょうか。実際、覚醒剤取締法が法改正される際、治療施設への予算割り当ても要求された痕跡があります。
ただし、これは実現しなかったとあります。じつは、法律制定時と同じく、第一次・第二次改正時も、実質的な法案の審議の記録が残されていません。ですから、なぜ予算案の構想が実現しなかったのかは定かではありません。
1957年になると、違反による検挙人数は803人にまで激減したため、公には「取締り強化で鎮圧に成功した」という扱いになり、議論から外れていったのかもしれません。
しかし、1970年には再び第二次乱用が拡大し、その後は減少傾向には落ち着きましたが、いまだ国内の代表的な乱用薬物のひとつではあります。この厳罰化が、実際に更生を促したかという命題は、今もなお問われています。
覚醒剤は「社会悪」という言葉と結びつき、取り締まること自体が“正義”として語られるようになっていった。しかし、その過程で置き去りにされた問いがある。処罰は、使用者の更生や回復にどうつながるのか。
次回は、この先送りされてきた問いを見ていく。
