なぜ酒は“危険でも合法”であり続けたのか——被害と規制の“ねじれ”をたどる
アルコールによる被害は、本人の健康問題としても、第三者への暴力としても、繰り返し可視化されてきた。にもかかわらず、日本ではそれらの問題は「酒の上のこと」として許容され、「節度を持って飲めばいい」と個人の責任に回収されてきた。
明確な被害があるにも関わらず、アルコールそのものを規制する議論は広がりにくい。なぜ酒は、ここまで例外的に扱われてきたのか。

公開日:2026/04/14 02:00
本稿では、小野田美都江さん(関西大学 総合情報学部特任教授)に話を聞き、日本においてアルコールの被害がどう認識され、何が問題となり、後回しにされてきたのかを、前編・中編・後編に分けてたどる。
(取材・文:遠山怜)
なぜ酒だけが“危険だが合法”になったのか
——日本では、お酒の危険性や被害が知られている一方で、アルコールそのものの規制を問う議論は広がってきませんでした。実際、法律や制度の上では、アルコールの問題はどのように扱われてきたのでしょうか。
小野田:法規制の観点からみて、飲酒に関連する行為を定めた法律は限定されています。
なかでも、アルコール関連問題を政策課題として総合的に扱ったのは、2013年に成立したアルコール健康障害対策基本法(通称・アルコール基本法)だけです。
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——つまり、アルコール被害を正面から扱う法律ができたのは、ごく最近のことなのですね。では、それ以前には、アルコールの被害を防ごうという議論はどのように行われていたのでしょうか。
小野田:1950年代には、すでに法規制を求める声が上がっていました。当時、法律制定に向けて動いていたのは、日本キリスト教婦人矯風会などの女性団体です。団体では、酔った上での犯罪行為や、家族への暴力、それに伴う経済的困窮の事例を把握し、問題視していました。
——1950年代の時点で、アルコールの問題は本人の健康被害だけでなく、家族への暴力や生活の困窮とも結びつけて捉えられていたわけですね。それにもかかわらず、酩酊防止法が成立したのは1961年です。
なぜ、被害が認識されていても、すぐには規制に向かわなかったのでしょうか。
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小野田:1940年代後半から50年代は、太平洋戦争の影響がまだ色濃く残っていました。戦時中から酒は国家管理のもとにあり、戦後もしばらくはアルコールの生産量は抑えられ、配給制となっていました。その頃、人々の「お酒を好きなだけ飲みたい」という欲求はかなり強かったのだと思います。
そうした時代には、たとえ被害があっても、すぐに規制へ向かう空気にはなりにくかったのだと思います。
——被害が認識されていても、「だから規制すべきだ」という合意には直結しなかったと。
小野田:ところが、高度経済成長期に入ると、そうも言っていられなくなります。
まず、国内のアルコール消費量が大きく増えました。農村から都市へ働きに出る人が増え、サラリーマンが歓楽街で飲んで帰るという飲み方が広がっていきました。そうなると、酔った末に公共の場で迷惑行為に及ぶケースも増え、泥酔者保護所が満員になるほどでした。
(脚注)泥酔者保護所:警視庁が泥酔者保護のために設けた専用の保護所。都内4ヶ所に設置され、最盛期の利用者は年間1万人を超えたとされる。現在はいずれの保護所も廃止。
また当時は、酩酊下の殺人や傷害について、判断・制御能力が著しく低い「心神喪失」や「心神耗弱」の状態での行為として、不処罰や減刑となることが少なくありませんでした。そのため、世間の批判の声も、徐々に高まっていました。
社会が動いたのは家庭の被害より“公衆の迷惑”
——家庭の中で起きていた被害だけでは、社会全体の問題として共有されにくかった。公共の場で酔った人を目にする機会が増えたことが、状況を変えたのでしょうか。
小野田:特定の被害を社会全体が認識するには、ある条件があります。それは、被害を象徴するような事件が起きることです。
1958年、10代の子ども2人が、酒にのめり込んだ実の父親を殺害する事件が起きました。父親は母親に暴力を振るい、妻子を働かせ、稼いだお金を酒代に注ぎ込んでいました。
マスコミはこの事件を、家族の困窮や社会福祉の不十分さが背景にある問題として大きく報じ、全国から減刑を求める嘆願書や寄付が集まりました。
——以前から存在していた家庭内暴力や経済的困窮が、象徴的な事件を通じて、ようやく「社会全体の問題」として可視化されたわけですね。
小野田:世論はこれを機に、「泥酔者を取り締まれ」という論調へ傾いていきました。そこで動いたのが女性国会議員たちでした。日本キリスト教婦人矯風会を中心とする女性団体と女性国会議員は連携し、酩酊防止法の法案提出に向けて動き出しました。
酩酊防止法が残したもの
——そして、1961年に「酩酊防止法」が成立した。ですが、酩酊防止法の条文を見ると、ここで規制されているのは「公共の場で酩酊者が起こす迷惑行為」です。当初、問題視されていたのは、飲酒下の暴力や経済的困窮でしたよね。被害の実態と、規制された対象にはズレがあるように見えます。
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小野田:当初、法案化の動機に、家庭内暴力の抑止と家族の保護が念頭にあったのは事実です。
しかし、そこで壁になったのが、「警察が家庭に踏み込むこと」への抵抗感でした。当時は、治安維持法の記憶が人々の間にまだ生々しく残っていました。「酔って暴力をふるうかもしれない」という段階で、公権力が家庭に介入することに多くの人が警戒したのです。
(脚注)治安維持法:1925年制定。社会主義・共産主義運動の取り締まりを目的に成立し、その後、対象を拡大しながら一般人や文化人の拘束も認めた。1945年廃止。
そうした国会での攻防の末、ひとまず「公衆への迷惑」を規制することで決着しました。当初の目的を十分に達成したとは言えませんが、法案を提出した女性国会議員たちは、まず飲酒規制の前例をつくることを優先したのだと思います。
加えて、この頃は東京オリンピックの開催を控えていました。政治の側で、外国人に路上で酩酊している姿を見せるのはみっともない、という点では意見が一致していたのでしょう。
——結果として、飲酒下の家庭内暴力や貧困の問題は、いったん先送りされた。
小野田:酩酊防止法を現在のDV防止法と照らし合わせて、被害者保護として十分だったのか、議論されることはあります。ですが、この法律を評価する上で、当時の時代背景を踏まえて考える必要があると思います。
当時はまだアルコール依存症の治療法も十分には確立しておらず、依存症者は病院に収容され、社会から隔離されていました。世間の偏見も強く、意思の弱さの表れだと見なされていた時代です。
そんな中、酩酊防止法は、国民に節度のある飲酒を呼びかけ、酩酊者を保護するよう対応方針を定めたのです。また、法律を運用する際の留意点として、アルコール慢性中毒者の治療や収容施設に予算を講じるよう明記されました。これにより、1963年には久里浜病院(現 久里浜医療センター)に国立のアルコール専門病棟が設置され、日本における依存症治療の先駆けになりました。
私は、酩酊防止法は、飲酒の困難を抱えた人に、治療というドアを開いた法律だと思います。
酩酊防止法は、課題を残しながらも、酩酊者を保護し医療へつなぐための道を開いた。ただし同時に、日本はここで、アルコールの問題を「公衆に迷惑をかける飲酒」として規制し、家庭内の被害や酒そのものの危険性を正面から扱うことはいったん先送りしたとも言える。
次回は、この構図が「ほどほどに飲めばいい」という自己責任の言葉へ、どうつながっていったのかを見ていく。
