親父に別れる【10】「親父と別れる」のではなく
自己破産をしたあとも父のギャンブルは続き、とうとういちばん怪しげな、たちの悪い金貸しからもカネを借り始めた。わたしはその会社窓口に抗議にいったのだが、逆にすごまれるような、そんな悪所であった。

公開日:2026/08/17 02:00
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親父に別れる「こういう世界もあるんだぜ」
父の借金を返済に来たわたしに、そう言ってすごむような金貸しにまで、父の借金はとめどがなくなっていた。
ただ、そのとき以来、父親のギャンブルは止まったようだった。なにしろカネを貸してくれるのは、まともな消費者金融ではいなくなった。窓口にいる社員からしてすでに闇の世界にいる風体の男たち。そんなたちの悪い金貸しだ。親父本人は、そうした世界に生きてきたのでなんということはないだろう。殺すってんなら殺してくれ。そう思っていたふしさえある。
ただ、その闇の世界に、大学を出て、いちおうは名の通った新聞社に勤め、まっとうに働いている息子を出入りさせることが、いかな悪党である父親にも、躊躇するものがあったのではないか。
長きにわたった家族の苦しみは、ここでようやく終わりを迎えた。
親父は障害者になった
激しく憎み合った父は、その後ほどなくして、腎臓をわずらい、人工透析が必要な一級障害者となった。短く刈り込んだ髪、雪駄履き、口に両切りのピースをくわえたまま肩をいからせて歩く、かつてのやくざな風体は、もはやどこに見いだしようもない。病院の行き帰り、タクシーに乗り、運転手が道を知らないと大声で怒鳴るようなところはそのままだが、ずいぶんおとなしくはなった。なにも知らない介護士が「やさしそうなお父さんですね」と言うようにもなった。
人工透析をしつつも、父は、その後何年も生きた。医者が余命3年といっていたが、はるかにこえて長生きした。食欲も旺盛で元気な父にくらべ、介護する母の疲労のほうが激しくなった。このままでは共倒れになりそうだった。そのとき、わたしは東京を離れ、九州で米百姓、鉄砲猟師となり、またその生活を書く作家になっていた。東京に戻り、両親の世話を見ることはできないし、またそのつもりにもなれなかった。
母から助けを求められ、父を、介護施設に入れることになった。自宅を出るくらいなら死んだ方がいいと言っていたらしいが、このままでは母がもたないのは目に見えていた。
ふだんの通院に見せかけ、ほとんどだますようにして入所させた。施設に向かうタクシーの中で母は、そりの合わなかった息子である「わたし」が入所を決めたのだと、父に言い訳したようだ。そういえば父も納得するだろうと考えてのことだ。父は、黙ったままだったという。
耳は遠くなったが食欲も旺盛だったし、家で介護を受け続けていたなら、まだ長生きしたように思う。入所して数日後、父はあっけなく死んだ。ほとんど食事を受け付けなくなったようだった。栄養剤の点滴は、拒んだ。
父は父の死を死んだ。おれはおれの生を生きているんだろうか。
ひりひりとそそけだつ生を
親父の大あぐらを、たまに思い出すことがある。降りるところまで降りてやれという、下降への意志とでもいうもの。親父にあってわたしにないもの。もの書きとしての自分に決定的に足りないもの。
無考えで、放埒で、自由奔放な生き方を親父が選び得たのは、若いとき、飢えたことがなかったからだ。カネで苦しんだことがなかったことに淵源するだろう。一方、親父の借金の後始末に走り回ったわたしが受け継いだのは、ひねくれた鼻っ柱の強さ、貧しさからくるいじけた劣等感であった。放埒にカネを使っていた親父のほうが、明るさ、向日性、無鉄砲ではあるがおおらかで、底抜けにゆるぎのない自恃を、持っていった。
貧しく、空腹で、理不尽な暴力を振るわれる自分の生まれ育ちからわたしが持つにいたったのは、いつもどこか物憂く、沈んでいる、悲しげな様子をした底暗さだった。物憂さをかなぐり捨て、ひりひりとそそけだつ生を手づかみにしたいという衝動は、いつごろからわが胸に胚胎したものなのか。新聞記者であるにもかかわらず、百姓になり、猟師になり、作家となって、本を大量に書いているわたしは、まわりの記者に言わせれば常人ではない、一種の狂気に映るようだ。しかし、自分自身がほんとうに自由なのか。放埒で、生きたいように生きていく、いわば「狂気」を、持っているのだろうか。
「泣く」自分を捨ててきた
子供の時、わたしは人前でほとんどものを話さない無口な子だった。おとなしいんだねというのが、すべての大人がわたしに持つ、最初の感想だった。なにかごちそうしてもらえるときでも、いつも遠慮して、いちばん安いものを頼んでいた。ブラジルに移民した父の弟が、一時帰国し、後楽園球場に巨人戦を見に連れていってくれたことがあった。この叔父が売り子からホットドッグを買ってくれた。「コーラもいるか?」と聞かれて、首を横に振った。死ぬほど飲みたかったのに、言えなかった。自分が、親切にされるに値する子供でないことを、痛いほど了解していた。
小学1年のとき、小6で体の大きな近所の悪童に、みなの前で小突き回されても、泣かなかった。反抗的な目をするでもなく、悪童のことも、周囲にいた同級生たちのことも、世界のだれをも見ず、無関心を装った。一人で家に帰ってレコードを聴いた。「泣く」という所作を忘れた。泣く自分、弱い自分を、捨てなければならなかったから。生きていけなかったから。
小さくされた者の地獄
いまの自分は、百姓になり、猟師になり、はた目からすれば「強者」で「マッチョ」に見えることもあるらしい。だが、映画や文学や実生活で、かつてのわたしと同じような目をした子供や、女性、老人、貧者、動物に、いまでも激しく心を動かされる。不必要に、親切にしてしまう。
寡黙で、虐げられて、どこにいるかも分からない、居場所のない、世界に無関心を装わざるを得ない、泣くという自己主張さえ忘れた、小さくされた生き物、かつて遠い昔に捨ててきた「自分自身」を、彼らに見ているからだろう。
自分が地獄にいたなどとは思っていない。ゲットーのゴミ捨て場で育つ少年、幼くして買春客を取らされる少女が、アジアにはたくさんいることを知っている。現代の日本であっても、父親から性的に虐待される子供がいる。母親に育児を放棄され、食べものさえ与えられない子供がいる。自分がとくべつではない。
どんな時代、どんな場所でも、小さき者は、それぞれの地獄をもっている。泣くのを忘れ、世界のだれをも見ず、無関心を装って、沈黙している。
生まれて最初の記憶がよみがえる
いまでも、小さい、古ぼけた生家を思い出すことがある。道路に面した両開きの扉玄関は、雀荘の入り口であり、客が出入りする。子供はそこを使えない。麻雀卓が五つほどの、小さな店だった。
店の奥に小上がりがあり、その先の六畳間だけが家族五人の居場所だった。屋根裏のような天井の低い部屋に、薄暗い吊りランプ。そこで飯を食い、そこで寝た。歩くと床板がきしむ狭い台所に、蛇口はひとつで、水しか出なかった。エアコンもない。風呂もない。だいぶ経ってから、小さな白黒テレビが台所に置かれた。
勝手口にある小さな引き戸が、家族の出入りする場所だった。靴は外に置きっ放しだった。その小さな引き戸横に、屋外の水道シンクがあった。幼いころ、生まれて最初の記憶。夜、母親に起こされ、父が釣ってきた大きな魚を、街灯の明かりで見た。
親父の影法師
親父が死んで、家族葬をすませ、マンション型納骨堂に小さな墓を買った。その費用はわたしがかぶるのだが、もうこの男にカネの面で苦しめられることはないと思えば安いものだった。清々しかった。
親父は死んだが、親父が、わたしに住み着いていると感じることは、たびたびあった。天ぷらは塩で食う。蕎麦はつゆにほとんどつけない。手酌が好き。白いおまんまに塩かけて食えりゃあごちそうだ。男が食いものに四の五の言うな。「目が腐る」といって、朝早く起きる。ええかっこしいで外面(そとづら)がよく、家族や親しい人には酷薄で足蹴にする。集団が嫌い。次男坊で強情で、孤独を苦にしない。凝り性だが、それとは裏腹の依存体質。男泣きがいちばん嫌い。泣くな。くどくど言うな。弱音を吐くな。男はだまってろ。胸張ってりゃいいんだ。
親父の性癖は、そのままわたしの気性として刻印されていた。
親父と別れるのは簡単だ。離れればいいし、捨てればいい。親父に別れるのが、難しいのだ。いままで生きるために捨ててきた、自分の弱さ。他者への感情。世界への信頼。生きることの、単純な肯定。そうしたものを捨てて、強くなって、残ったのは、親父に似ている影法師に過ぎなかった。
この7月、東京・下北沢で『三行で撃つ』『百冊で耕す』文庫版の出版記念トークイベントがあった。イベントのあと、女性が寄ってきた。ウェブに載っているこの連載を、欠かさず、何度も繰り返し読んでいる。そう言った。
「お父さんは、あなたなのではないですか?」
わたしは信じていない
なにもかも無意味だと考えた。親父の生涯も、強欲で人でなしの伯父のそれも、殴った兄も、殴られて気を失った弟も、貧困も暴力も窃盗も、無意味だと思った。世界と人生が無意味であるように、これらのことは取るに足らないことだと考えた。無意味だとするならば、それらの物事のためにどうして苦しむことができるだろう。
親父が死んだあと、親父の夢を見続けるようになった。いつも、はっきりした夢の記憶で目が覚める。うなされることがあったらしい。「起きて、はっきり泣いていた」と言われたこともある。わたしは、信じていない。泣くことは、物心ついて以降、わたしの人生で一度もないはずだ。捨ててきた行為だ。
夢を見続けて1年もたったある日の明け方、こんなことがあった。
最初、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を見るのは、だれでも経験することだ。それがどうしても夢でないと悟らねばならなかったとき、わたしは、しかし恐怖も狼狽も感じなかった。
わたしの足元に座ったモノ
田舎の一軒家の、わたしは二階寝室で寝ている。そのわたしのもとに、親父が来た。玄関前から、両切りのピースを口にくわえて咳き込む、特徴のある声がした。子供のころ、ずっと間接喫煙をさせられていた。砂利を踏む雪駄の足音で、遠くから近づいてくる距離がはかれた。わたしはふだんから玄関に鍵をかけない。ベルも押さずに勝手に通ってきたのだろう。木製の頑丈なドアが音を立てて閉まった。廊下を歩く遠慮のない足音は、でかい図体の、重たい音であった。
午前3時すぎだった。わたしがいつも起きる時間である。布団のうえ、半身を起こした。リモコンで室内灯をつけた。驚きはしなかった。やっと来たのか。遅かったじゃないか。むしろそう思った。夢を見続けて、いずれはこうなるという予感があった。
寝室のドアを開けた親父は、手に日本酒の瓶を持っていた。いつも飲むのはキリンラガービールかサントリーホワイトウイスキーだったから、そこだけは少し奇異に感じた。ピースの、懐かしい匂いが鼻先を漂った。わたしは、なにも言わなかった。話すことなどない。親父にも、ないようだった。親父はわたしの足元に座り、もってきた一升瓶を床におろし、自分で湯飲みについで、酒を飲んだ。黙って飲んだ。手酌でやった。
わたしは一瞬、一緒に飲んでやろうかとも考えた。親父にしてみたら、和解らしき儀式のつもりなのだろう。そう思ったからだが、やはり、やめた。早朝はわたしにとってもっともだいじな執筆時間である。はっきりした頭を、酒で濁らせたくなかった。飲まなかった。
父は、大あぐらをかいていた。
10分間もいただろうか。大きな咳払いをひとつして、立ち上がった。最後まで、無言だった。一升瓶と湯飲みを持ち、ドアを出ていった。振り返らなかった。わたしは右手を床についたまま、親父が開け放したドアの向こうの闇を見た。親父の重たい足音が、階段をきしらせたあと、暗闇に消えた。右手で床を軽く押し、布団から完全に出て、部屋の隅に置いてあるふきんをとり、床をふいた。ピースの葉っぱがいくつか、落ちていた。湯飲みの高台(こうだい)の跡で、床が水にぬれ、二重に丸くなっていた。
大あぐらを思い出す
その日から、なにかが劇的に変わったわけではない。ただ、たて続けて親父が夢に現れることは、絶えてなくなった。
親父に、別れる。
親父の、傲然とした大あぐらを再び見て、ようやく思い出した。すべてはこれからだ。これからの、わたしの書く文章によって、わたしの生きる生き方によってなのだ。生きることの、単純な肯定。おれも、おれの死を死にたいんだ。
父の命日から数年経ったある年、認知症の予防に、母はスマートフォンでLINEを始めた。わたしの文章をどこかに見つけると、ゆっくりと、なんども、繰り返し読み、雪深い田舎の中学校しか出ていない女の、誤字だらけの、つたない感想を送ってくる。あなたが自分の子供だとは思えない。誇らしい。そんなことを書いてくることもある。今年の7月には、「誕生日、おめでとうございます」とLINEが来た。
肉親から初めていわれた、誕生祝いだった。
(完)

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