「ほどほどに飲めばいい」はどこから来たのか——飲酒が“自己責任”とされた訳
日本では、飲酒は「個人の節度」に大きく委ねられてきた。その象徴が、「お酒はほどほどに」という言葉なのかもしれない。「ほどほどに」という言葉は、注意喚起する声かけであると同時に、逸脱した個人に責任を帰する言葉にもなり得た。
広く使われながら、その中身が曖昧な「ほどほど」という言葉は、いったいどこから来て、何を個人に背負わせてきたのか。
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公開日:2026/04/15 02:00
中編では、前編に引き続き小野田美都江さんに、「適正飲酒」という考え方がどのように広まり、なぜ「飲み方は本人次第」という自己責任の見方と結びついていったのかを聞いた。
(取材・文:遠山怜)
“ほどほどに飲む”はどこから来たのか
——最近のCMでも、「お酒はほどほどに」というフレーズをよく聞きます。注意喚起のようでいて、何をもって「ほどほど」なのかは曖昧なままです。
この「ほどほどに飲む」という考え方は、いつ頃から広がったのでしょうか。
小野田:日本のアルコール問題対策の大枠を作ったのは、1979年に厚生省(現・厚生労働省)が発表した『酒害予防対策について』だと言われています。この報告書では、アルコールによる健康被害の予防策として、「適正飲酒の普及」が推奨されています。
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「ちょっとのお酒は健康に良い」という話を、どこかで聞いたことはありませんか。当時は、公衆衛生研究のなかで、少量の飲酒は心疾患のリスクを低下させるという説が支持されていました。
そうした医学的コンセンサスを背景に、アルコール問題の予防策として「適正飲酒」という考え方が位置づけられていきました。実際、国の健康づくり施策でも、「節度ある適度な飲酒」の普及が目標として掲げられてきました。
——つまり、「節度ある飲酒」は、一般的な通説にとどまらず、行政によるアルコール対策の指針でもあったわけですね。今でも、「少しならむしろ健康にいい」という言い方は、よく聞きます。
小野田:ええ。ただ、現在ではその説は否定されています。
大規模な疫学調査が進み、より精度の高い分析が行われた結果、アルコールはさまざまな健康被害と深く関連していることが明らかになってきました。今では、健康被害を最小化するという意味では、「飲まないこと」がもっとも確実だとされています。
現に、2024年にWHOは「アルコールは低量でも健康リスクをもたらす可能性がある」として、各国に飲酒量を削減するように呼びかけています。同年、厚生労働省は「健康に配慮した飲酒に関するガイドライン」を策定し、健康被害のリスクとなりうる飲酒量の指針を定めています。

「ほどほど」で済まなかった責任はどこに向かうのか
——「ほどほどに」という言葉を支えてきた前提は揺らいでいます。それでも、いまなお「飲むこと」を前提とした適正飲酒が推奨されている例を見かけます。こうした言葉は、注意喚起であると同時に、「そこから外れた人」の責任を個人に帰しやすくする面もあるのでしょうか。
小野田:どういった条件で自己責任と結びつくのか、要因は単純ではないと思います。ただ、早い段階から、当事者や医療者は「アルコール依存症は誰でもなり得る」「意思の問題ではない」と世間に訴えてきました。
1960年代前半には、全日本断酒連盟(通称・全断連)が発足しています。全断連は一貫して、アルコール依存症に対する偏見をなくすことを目標に掲げ、草の根の啓発活動を続けてきました。
ですが、当事者の声はなかなか社会全体の認識を変えるには至っていません。いまもなお、アルコール依存症は個人の問題だという見方が主流です。
2023年に内閣府が行った世論調査では、回答者の約35%が、アルコール依存は「本人の意思が弱いことでなる」と答えています。また、「誰でもなりうる病気である」と答えた人も約54%にとどまりました。

要するに、多くの人は依然として、「アルコール依存になるのは、その人自身に問題があるからだ」と考えているのです。酒を飲んでいる人の多くが、「自分には関係ない」と思っているのかもしれません。
——アルコールの問題が大きなうねりになりにくいのは、やはり世論の側で「社会の問題」と見なされにくいからでしょうか。
小野田:そうだと思います。アルコールの問題に強い関心を持っている人が、いまもごく一部にとどまっているのです。お酒に困っている人と、そうでない人の間に、大きな断絶がある。
実際、「アルコール基本法」自体を知っている人も、まだかなり少数派です。世の中では、お酒を楽しく飲める人のほうが多数派なのでしょう。少数派がどんな困難を抱えているのかが、多数派には見えにくいのです。
アルコール関連団体の中で課題解決に向けた議論や活動が行われていても、その動きは外部にはほとんど伝わりません。政策をどうするか以前に、社会の側で「なぜ伝わらないのか」を考える必要があると思います。
販売・流通規制なき「ほどほど」のゆくえは
——WHOは、飲酒量を減らすために、広告規制や酒税の引き上げ、販売方法の制限といった踏み込んだ対策を提案しています。一方、日本では、そうした議論は広く共有されておらず、本格的な導入にも至っていません。
「ほどほどに飲めばいい」という個人の節度に委ねる考え方だけでは限界があるようにも見えますが、どう考えればよいのでしょうか。
小野田:酒類の広告・販売規制はアルコール対策基本計画でも、議論されてきました。ですが、酒類の規制は、日本の伝統文化や地域経済の活性化にも関わってきます。
例えば、日本では「伝統的酒造り」がユネスコ無形文化遺産に登録されたり、地域の産業振興として「地域のお酒で乾杯する条例」が制定されたりと、お酒は観光・経済資源として使われています。
有害な飲酒を防ぐことと、お酒のある豊かな生活をどう両立させるかを、両輪で考えるべきだと思います。
——たとえば、依存症の成り立ちや発症の仕組みが、今よりもっと明らかになれば、世の中の認識も多少は変わってくるでしょうか。
小野田:仮に今後、依存しにくい飲酒量の目安を示すことができたとしても、それだけで自己責任の風潮が変わるとは思いません。基準を作ることと、人びとの受け止め方が変わることは別だからです。
アルコール関連の社会政策研究家であるバトラーは、「多くの人が問題を問題として認識する流れを確立しなければ、政策が政治的な勢いを得る可能性はほとんどない」と述べています。
(脚注)S.バトラー:アイルランドのアルコール・薬物政策を専門とする社会政策研究者。
私自身は、医療以外の分野からアルコールを論じる研究がもっと必要だと思っています。いま主流になっているのは、医学の側から健康被害を扱う研究です。しかし本来は、それだけでは足りません。社会学、経済学、心理学、民俗学、文化人類学といった多様な視点からも、アルコールと社会との関係を検討する必要があります。
医療従事者や当事者だけでなく、それ以外の人びとにも関心が広がっていけば、アルコールの問題を「みんなの問題」として考える土台も、少しずつできていくのではないでしょうか。
「ほどほどに飲めばいい」という言葉は、一見すると穏当な注意喚起に見える。しかしそれは同時に、酒を節制する責任を個人に限定する言葉ともなりうる、と筆者は考える。「健康的な飲酒」という前提が揺らぎつつある今、飲酒を個人の裁量に委ねたままで、国や行政がどう健康被害を防ぐのかが問われているのではないだろうか。
次回は、こうした自己責任の構図のなかで、当事者や被害を受けた人の声をどう制度につなげていけるのかを考える。
